サッポロ・シティ・ジャズとイマーシブオーディオ
ジャズが熱い街と聞いて、どこを思い浮かべるだろうか。宇都宮、北九州、神戸、札幌、仙台、横浜など、日本国内で「ジャズの街」をうたっていたり、フェスティバルが開催されていたりする地域は数多くあるが、今号では、札幌に焦点を当てることにする。
札幌市や札幌市芸術文化財団等が主催するサッポロ・シティ・ジャズは、国内最大級とも言われるジャズの祭典である。大通公園周辺の複数の会場でライブを行う「パークジャズライブ」や、芸術の森の野外ステージでの「ノースジャムセッション」、札幌文化芸術劇場hitaruでの「シアタージャズライブ」などの多彩なイベントが、年間を通して行われている。今回紹介するのは、昨年の12月6日に聴く機会を得た「シアタージャズライブ」と、そこで使われているイマーシブオーディオシステムについてである。後述するようにシアタージャズライブの会場は舞台、客席エリアとも幅が広く、もともとデッドな空間であるが、イマーシブオーディオシステムの導入により、演奏者の位置と音像の一致度が客席エリアの広範囲で向上し、雰囲気に合った適度な響きの空間演出がなされていた。
シアタージャズライブ
シアタージャズライブは札幌文化芸術劇場hitaruが開館した2018年に始まり、毎年12月に1週間ほど行われている。このコロナ禍でも感染対策を徹底して開催され、今回が5回目である。本ニュース372号(2018年12月号)で紹介したように、hitaruは様々なジャンルの公演が可能な高機能なホールである。シアタージャズライブは写真の様に、通常ホールの客席と舞台を隔てるオペラカーテンが会場の入り口となり、舞台の中だけで開催される。hitaruの特徴の一つであるオペラ上演も可能な4面舞台の広いスペースを使い、奥舞台に仮設ステージ、本舞台と下手・上手の袖舞台に広がるように客席が設置される。更に、フード・ドリンクブースが上手側の奥にあり、食事をしながら音楽を楽しむことができる贅沢なイベントである。
シアタージャズライブでは連日国内外の有名アーティストがライブを行い、チケットの売れ行きは毎回好調のようである。2022年は12月2日から7日の開催で、筆者が訪れた日の出演者は世界的トランぺッターの日野皓正が率いるクインテット(トランペット、ギター、ベース、キーボード、ドラムス)に、ゲストで縄文太鼓奏者が加わった6人組であった。日野氏の80歳とはとても信じられないメリハリの利いた、かっこいい演奏に圧倒され、あっという間に時が過ぎ去ってしまった。冒頭にジャズが熱い街、と述べたが、札幌はただ世界的アーティストが訪れイベントが開催されるだけでなく、若手の育成にも力を入れているようだ。日野皓正クインテットを支えているドラマーは、サッポロ・シティ・ジャズとも連携している札幌ジュニアジャズスクールの出身だそうである。この日の最終曲では現役スクール生の飛び入り参加もあり、メンバーとの激しい即興セッションで会場を盛り上げて札幌の若手のレベルの高さをアピールしていた。
シアタージャズライブはクオリティの高い演奏と、独創的なホールの使い方も興味深いが、もう一つ耳目を集める取り組みが行われている。それが冒頭でも述べたイマーシブオーディオシステムの導入である。
イマーシブオーディオシステム
「イマーシブ」は、没入感と訳される。イマーシブオーディオに明確な定義はないものの、従来のモノラル・ステレオによる拡声を超越した空間印象が得られるサウンド・システムを指すことが一般的になってきている。本ニュース335号(2015年11月号)で紹介した、物理的に多数のスピーカで視聴者を囲うシステムだけでなく、ヘッドホンで再生可能なシステムも増えてきている。当時の課題であったコンテンツも、今ではベルリンフィルが提供しているデジタルコンサートホールやYoutubeなどの様々なメディアプラットフォームが「イマーシブオーディオ」を導入している。2010年代は映画や録音された音楽を立体的に楽しむ、というものがほとんどであったが、徐々にライブでも対応可能なシステムが増えてきた。もっともその走りはブレゲンツの湖上オペラ他で古くから運用されている音像定位にこだわったデルタ・ステレオフォニー方式のサウンド・システム(本ニュース337号(2016年1月号)参照)であろうが、ようやくツアーライブ等、仮設イベントでも利用できる環境が整ってきたようである。2022年のInter BEEでは、d&b audiotechnik社の「d&b Soundscape」とL-acoustics社の「L-ISA」という2つのシステムについて試聴会や操作方法のデモが行われていた。
大空間でのライブにイマーシブオーディオシステムを導入する目的の一つは、視覚上の演奏者の位置と、聴感上の音源位置のずれをできるだけ無くすことにある。従来のステレオシステムではセンターライン付近の人しかステレオ効果を体験できず、その他大勢の人にはLかRどちらかのスピーカの音が支配的となり、その効果は崩れてしまっていた。特に舞台(あるいはLRスピーカ)の幅よりも外側に客席エリアがあるような会場では、パンニングにより全く聴こえてこない楽器やパートがないように、モノラルシステムとほとんど変わらない拡声音にせざるを得なかった。シアタージャズライブではそういった状況を打破するため、d&b Soundscapeが採用された。
Soundscapeには2つの機能があり、その1つが「En-Scene」という音像定位機能である。舞台近傍に多数設置されたスピーカを用いて仮想的に波面合成を行うことで、広範囲の観客エリアで音が演奏者の方向から到来している印象が得られる機能である。音源から波が広がる様子を、たくさんのスピーカで模擬するための信号処理は専用のプロセッサにより行われている。今回の舞台近傍には、舞台上部に5列のラインアレイスピーカが吊られ、舞台床上にも客席エリアに向けた10台のスピーカが並べられていた。
観客エリアの側方や後方、上部にも合わせて約30台のスピーカが会場全体を取り囲んで設置されていた。これらはSoundscapeのもう一つの機能である、残響付加を行う「En-Space」に使われている。En-Spaceは実際のホールや劇場の壁近傍で収録されたインパルス応答(残響音)と、実演奏音等を畳み込んだ音を周囲のスピーカから再生して会場の残響を調整する機能である。拡声音にただカラオケのエコーの様なリバーブのエフェクトを加えただけでは不自然さが生じてしまうが、聴衆を取り囲むスピーカから拡声することで、実際のホールなどで体験するような壁や天井で音が反射して生じる響きに近い雰囲気を作ることができる。これもイマーシブオーディオシステムの利点の一つであろう。
シアタージャズライブの会場となっているホールの舞台、特にフライタワーは通常裏方であり空間が大きいため、音が響き過ぎないように壁・天井をグラスウールなどの吸音材で仕上げた設計となっている。しかしジャズのライブを行うには、響きが不足気味である。ジャズの演奏には電子楽器だけでなく、管楽器など、楽器自体が響きを持たないものが多い。また空間の響きが少ないと観客の拍手もまばらに聞こえ、盛り上がりにくくなってしまう。イマーシブオーディオシステムによる残響付加はシアタージャズライブにぴったりの機能であったようだ。ライブではおそらく開演前からEn-SpaceがONになっており、演奏音も拍手も、ホールの舞台の中にいることを忘れさせる適度な響きの空間を演出していた。
12月6日は、ライブ前にd&b Soundscapeについての技術セミナーもあった。Soundscape ON/OFF時のピアノや弦楽四重奏の演奏を聴きながら、演奏者近傍やステージから離れた位置まで歩き回ることができた。SoundscapeがONの時には、説明通りどこにいても拡声音の音像は各楽器の位置付近に感じられた。しかし同時に、楽器からの直接音と合わせて聴こえてくる場合のこのシステムの使い方の難しさがあり、コンサートホールで聴く生のコンサートに取って代わるものではない、ということも強く感じられた。マイクロホンで録った音を拡声することに変わりはないため、マイク位置に依存した音色になることの制御の難しさ、楽器からの音の拡がり方まで再現できていないことにより音像が不自然に大きく感じられること、舞台床置きのスピーカのカバーエリア外では視覚との高さ方向での定位感のずれがあることなど、課題はまだありそうであった。
ライブ本番では、演奏者が下手側からピアノ、縄文太鼓、ベース、トランペット、ギター、ドラムスの順に並んでおり、筆者は写真の通りステージから若干下手側に外れた位置で体験した。この位置でも、各楽器の位置を音としてもはっきりと感じることができた。ただ演奏者が移動したり、トランペットの向きが変わっても聴こえ方が変わらなかったのは、逆に違和感を生じさせていたように思う。また驚きだったのは、定位感が良くなったことでどの楽器も埋もれず聴きやすさが格段に向上したように感じられたことだ。この聴きやすさを特に顕著に感じたのは、ライブが盛り上がって全体の音量が大きくなっている時であった。
シアタージャズライブでのSoundscapeのシステムは2019年の初導入から、毎年少しずつスピーカの数や構成、マイクの設置の仕方などを変え、試行錯誤しながら進歩し続けているそうだ。システム構築のために、hitaruの固定設備であるメインスピーカとパワーアンプを定位置から移動して、持ち込み機材と合わせて使用しているとのこと。公共のホールでありながら、こういった機材の使用方法や舞台上での飲食の許可などから、ホール運営の柔軟さが伺える。ホールにおける新たな企画が例年行事となり、それを体験できることはとても嬉しい。
筆者がイマーシブオーディオシステムを実際のライブで体験するのは、今回が初めてであった。各種システムのデモ等で音源位置の移動や空間の響きが一瞬で切り替わるのを経験してはいたが、熱気を伴うコンサート等、生の雰囲気の中での経験は不可欠だと強く感じた。視覚的な方向感と聴覚的な方向感が揃うことで演奏に集中しやすくなるし、どの楽器の音も埋もれずに、より高い解像度で楽しめるようになっていたと思う。改善したいポイントは、高さ方向の定位感の向上、楽器の指向性や音源の空間的な大きさの印象制御など、まだまだありそうだが、今後のライブイベントがもっと楽しいものになりそうな、期待が高まる一時を味わうことができた。同時に、イマーシブオーディオシステムの発展によりオーケストラや合唱など、生音のためのコンサートホールが不要になることはなさそうだ、ということも感じられたのは大きな経験であった。
ホール設計に携わる我々にとっての課題の一つに、多くの公演にこういったシステムを仮設でも導入できるようにすること、を今後は加えて、より多くの人により良い音を楽しんでもらえるようになれたら幸いである。(鈴木航輔記)
サッポロ・シティ・ジャズ:https://sapporocityjazz.jp/
d&b Soundscape:https://www.dbsoundscape.com/jp/ja/