No.062

News 93-2(通巻62号)

News

1993年02月15日発行

東京落語事情

劇場・ホールで行われるパフォーマンスにも様々なものがあるが、寄席もその一つ。昔は東京の盛り場にはたいがい寄席があったそうだが、今、東京に常打ち(昼間から毎日演芸を演ってる寄席)は国立劇場演芸場を入れて4軒。寄席の人気がなくなったと言われて久しいが、落語そのものの人気も落ちてるのか。いろんなホールで催されている落語会は結構若い人で賑わっているようだが…。街ごとに寄席・落語会の様子を追ってみよう。

新宿 東京の伝統的な寄席の一つ新宿末広亭。かつて、演芸は庶民の代表的な娯楽で、10年位前まではテレビでも末広亭からの演芸番組をよく放送していた。テレビで見る限りでは立派な劇場という印象だったが実際は場末の映画館といった感じの200席位の古い小屋である。客席の後の隅に売店があり、今でも昔ながらの丸いアルミの蓋のついたガラス壺のなかに煎餅を入れて売っていてまさにレトロそのもの。客席に入るとオネエサンが「どこに座りますか?」と聞いて席に案内してくれる。「一番前」というと上演中だろうが気にせず最前列まで案内してくれる。こんな小屋(劇場)は寄席以外に考えられない。

東京には噺家の団体は落語協会と落語芸術協会の二つがあり、こういった寄席では両協会が交互に席を受け持つ。落語協会から脱会した立川談志一門や三遊亭円楽一門、関西の噺家などはこのような常打ちの高座に上がることはできない。定席は昼の部と夜の部とに別れ、両席とも前座を含め十数人の落語家が出演、その合間に漫才、曲芸、奇術などのいわゆる色物が入る。夜の部は5時から9時半まで、ひとりあたりの持ち時間はだいたい10~15分、独演会のように一人の噺をじっくり聞くというのとは趣がちょっと違う。
新宿で旧くから行われている寄席で人気の高いのが紀伊ノ國屋寄席。これは紀伊ノ國屋ホールで定期的に催され、いつも人気噺家が出演し、多くのファンを持っている。

紀伊ノ國屋書店2階のレコード店は落語のソフトの品揃えが豊富である。ここには落語好きの店員がいて市販されている落語のソフトのリストを作り、客に配ってくれる。一時、差別用語(めくら、つんぼなど)が使われている落語のテープが発売禁止になるという噂があり、その手のテープのリストをつくり、早く買っておけと忠告された。(余談)

池袋 数年前まで池袋駅西口の繁華街の中に常打ちの寄席、池袋演芸場があった。この寄席ではもぎりのおばさんが“どうぞ召し上がれ”とお茶入りの小さな薬罐と湯飲み、それに煎餅を二枚のせたアルミのお盆を渡してくれて、中で好きに食べながら聴くとができた。中には下手な噺家もいて、下手な噺というのは聞いているほうが緊張するもので、その緊張緩和のために煎餅を食べる。早く終わるのをひたすら願うわけである。この池袋演芸場に代わって新しく池袋落語会が始まった。落語協会と落語芸術協会が合同で東京芸術劇場小ホールで月1回開いている。毎回出演者の顔ぶれも良くこれまたすぐに売り切れる。

上野 伝統があり最も格の高いといわれている寄席、上野鈴本演芸場。今はどうか定かでないが、ちょっと前まで客席は畳み敷きで、混んでくると幾らでも詰めさせる“芸”を持ったお茶子のおばさんがいた。定席の形式は末広亭と同じ。定席以外に人気噺家の独演会などをやることがあり、こういう独演会や定席でも人気噺家が主任(トリ)を取るときにはかなりの客が集まるが、普段の日はガラガラ、こんな日を業界では“アメリカン”と言うそうだ。

浅草 浅草演芸ホールも東京常打ちの寄席の一つ。寄席としての格は他より落ちるらしいが定席の形式は末広亭と同じ。かつては演芸と言えば浅草、といわれるほど東京のお笑いの本拠地で、お笑いのスターを多く輩出したが、最近はずいぶん寂しい。寄席というものに対するイメージは、かつての浅草のイメージそのものという気がする。

銀座 東芝銀座セブン8階ホールで“東芝土曜寄席”が行われている。こういう一企業が行うイベントは企画する人が落語好きだとすぐに寄席が生まれる。低予算でできるからだ。一時、この企画をした店長が移動になり寄席もなくなったが、最近また復活している。有楽町の朝日新聞マリオンでもオープン以来定期的にマリオン寄席が開かれている。朝日新聞に催しの案内や、時には評も出るので知名度も高く人気があり、やはりいつも満席。

渋谷 かつて伝統ある落語会で東横落語会というのがあった。この会は常に第一線の噺家を呼ぶことで定評があり、人気の高い落語会で、渋谷駅の東横ホールで行なわれていた。残念ながら東急文化村の計画に合わせて東横ホールが閉館となり、落語会もなくなった。文化村の完成後、落語ファンはあのシアターコクーンできっと東横落語会が復活するだろう、と期待しているが未だにその兆しはない。現在渋谷には寄席は消えている。

三宅坂(国立劇場) 曰く“歌舞伎や文楽や能のためには国で劇場を建てているのに、落語には何でないの?”とヒガンだとか…。“ったく、しょうがねえな”ということでお国で建ててくれたのが国立劇場演芸場。国立劇場の裏の方に大・小ホールに背を向けるような形で建てられているのがなんとなくイジケて見える。ここでも定席は昼からやっているが、官庁、オフィスが集中している場所で平日昼間っから演芸を見に来る客はどんな奴だと一度顔を見てみたい。この劇場で“さすが国立だ”と思うのは落語関連書物のライブラリーがあり、ビデオや録音のソフトもあって三遊亭圓生、林家彦六など今は亡き名人の芸を聴くことができる。また、資料展示室もあり演芸関連の企画展示が行われている。

ホール落語について

寄席の半可通の常客に言わせるとホール落語は内容がまるでダメだという。ホールでやる落語会は結構人が集まるが月に2~3度のことでせいぜい年間2~3万人、常打ちは毎日のことで何十万人を動員している。噺家も常打ちの寄席の方が真剣で良い噺をすると言う。しかし、常打ちの寄席には下手でも人気者でも協会に属する噺家はすべて出ることができる。ホール落語は人気、実力が無くては客を集めることはできないし、第一主催者が呼んでくれない。果たしてどちらが真剣になるだろうか。協会に属さない噺家は尚更のこと、客を集めることができないということはすなわち食えないということに繋がる。ホール落語の方が噺家にとってむしろ真剣勝負。40~50分、じっくりと一つの噺を聴かせてくれるホール落語にお客が集まるのは当然と言えば当然のことで、落語の人気は決して無くなってはいないのである。座布団1枚用意しておいて噺家を一人呼べば催し物として成り立つのだから、ホール落語会がさらに多く開かれることを落語ファンとしては望んでいる。
といったところで、お後が宜しいようで…。(小野 朗 記)

鈴木雅明さんのオルガンコンサートのご案内

鈴木雅明さんとは神戸の松陰女子学院のチャペルが竣工したときからの知己である。鈴木さんのオルガン演奏は名騎手でさばかれる駿馬の走りのように躍動感がありみずみずしさがある。昨年の9月の一夕、本拠地の松陰のチャペルで“ヨーロッパ・オルガンの百花繚乱”というリサイタルを聴いたが、約1時間半を一気呵成に弾きこなされた演奏は、鈴木さんがしばしば口にされる“オルガンへの思い”を感じさせる音楽であった。この鈴木さんが3月19日、池袋の東京芸術劇場のガルニエオルガンでリサイタルをされる。

昨年の4月の上旬、関西、九州の7ホールで行われたマリー=クレール・アランさんのオルガンリサイタルのプログラムに、鈴木さんが“オルガン建造と時代の様式”という一文を寄せておられる。オルガン音楽の原点から、ネオ・バロックのオルガン、コンサートオルガンについて、いまオルガンおよびオルガン音楽が直面している問題点について簡潔に言い尽くされておられる。実にみごとであり、鈴木さんのヨーロッパ文化、音楽に対しての洞察力の深さを物語っている文章である。さらに、現在における古楽器演奏の意義、そして最後にこの話題のガルニエオルガンについても冷静な目で観察されておられる。

ご存じの方も多いと思われるが、芸術劇場のガルニエオルガンは四つの様式のオルガンが二面に複合された構造で、これまでの演奏会では必ずといってよいほど、プログラムの前半と後半とでは反転されて演奏されている。“お色直しオルガン”とは菅野浩和先生の名言である。しかし、鈴木さんはこのような使われ方に対しては批判的である。

3月19日のリサイタルでは古典側だけのパイプで、お色直しなしの演奏が行われる。そこにも今回の演奏会に対しての鈴木さんの姿勢がうかがわれる。ご来場をお勧めする。詳細は同封のチラシを参照いただきたい。

なお、鈴木さんは1991年に“バッハ・コレギウム・ジャパン”という古楽器の演奏団体を結成され、神戸、東京において精力的な演奏活動を展開されておられる。2月2日にはカザルスホールにおいて、バッハの平均率クラヴィア曲集第一巻の演奏が彼自身のチェンバロで行なわれた。引き続き、今年のカンタータのシリーズが津田ホールで行なわれる。声に音楽の原点を求める鈴木さんのカンタータシリーズもぜひお聴きいただきたいコンサートである。

都内ホールの利用状況(NEWS 93-01号)の記事についてのお断り

本誌では1988年の発行以来、都内各ホールの年間の利用状況をお知らせしてきた。ところが、先月号に掲載した1992年度のホールの利用回数が実際と違っていることがサントリーホール側から指摘された。問題はコンサートの開催数の根拠にしている雑誌“音楽の友”の巻末のコンサートガイドはコンサートのすべてを掲載していないという事実を知らなかった当方の落ち度にある。実は昨年末、恒例の小林道夫さんのゴールドベルグの演奏会がこのガイドに掲載されてないことに気がついてはいたが、これは時間的に間にあわなかったためだろうと勝手に解釈していた。そういえば、ホールの数が増えているのに、毎年のコンサートの数が変わらないことも不思議といえば不思議であった。これは掲載ページのスペースの制約という別の原理が働いていたためである。
とりあえず、サントリーホール側から提供された資料を紹介しておく。

1992年度サントリーホール利用状況1

実際の公演数2NEWS93-01に掲載した公演数3
大ホール388回325回
小ホール304回 167回
  1. 1992年度営業日数 348日 ↩︎
  2. サントリーホール提供による ↩︎
  3. 雑誌「音楽の友」1992年1月~12月号 コンサートガイドによる ↩︎

他のホールの利用回数もNEWSで示した数値よりもかなり多いとみてよいであろう。

NEWSアラカルト

新明治座の完成

明治座はわれわれの年代の者にとって懐かしい劇場である。しかし、変遷の激しい東京では忘れかけてしまった存在となっていた。この由緒ある劇場が「浜町センタービル」というオフィスビルの中に再建された。1月26日の午後、設計施工を担当された竹中工務店のはからいで、見学会が行われた。
資料によればこの劇場は江戸末期、両国橋の西岸に端を発し、明治6年「喜昇座」として久松町河岸(現在の浜町)に開場した。これまで、震災、空襲をふくめて5回の火災に見舞われている。
新明治座は浜町センタービルの下方に約1400席の客席が食い込む形で取り込まれている。舞台は40m×19m、すの子の高さ22.5m、14.5mの廻り舞台、深さ13.5mの奈落、オーケストラピット、花道までを備えた本格的な演劇用のホールである。今、話題の第二国立劇場と違って、明治座という実態がはっきりしている施主の劇場であるだけに、コンセプトから割り出された設計が貫かれている。この人形町界隈は、下町のたたずまいを感じさせる暖かい雰囲気にある。オープンは今年の3月2日である。

ダイアトーンスピーカー「P-610」の終焉

1947年以降、製造が続けられてきた三菱電気のダイアトーンスピーカーP-610が昨年製造中止となった。“ろくはんスピーカー”を代表するこのP-610は戦後のオーディオファンにとって、思いの深いスピーカーである。このスピーカーの開発の歩みを三菱電機の佐伯多門さんが“モニタースピーカー「610物語」として、日本オーディオ協会の機関誌JAS Jounalの’92.10月号に掲載されておられる。約半世紀にわたるP-610の開発の歩みが綴られている。感動の記事である。