永田音響設計News 90-9号(通巻33号)
発行:1990年9月25日





建築音響研究の現況と展望―その1

 今年の6月25日、7月30日の2日間、日本音響学会建築音響研究委員会(委員長:大川平一郎)において、建築音響研究の現況と展望というテーマで、室内音響、騒音防止に関して6つの講演があった。今月はまず、前半に行われた室内音響関係の講演を紹介する。講演者はいずれも、それぞれの部門を代表する研究者である。

◇音場計測の動向:山崎芳男(早稲田大学) 建築音響研究委員会資料AA90-10
 室内でパルス状の音をだしたときに受音点で観測される音圧の時間的な波形をインパルスレスポンスという。この波形には伝送系のあらゆる情報が含まれており、伝送系の基本的な特性として着目されている。
 山崎氏は4本のマイクロホンを近接させ、各マイクロホンのインパルスレスポンスをディジタル信号処理することによって、観測点に到達する反射音の強さや方向を仮想音源分布の形で視覚的に捉える手法を開発された。近接4点法といわれている。氏はこの手法によって世界の著吊なホールの音場を測定し、仮想音源分布の形からみた各ホールの特色を明らかにした。わが国ではおなじみのウイーン楽友協会大ホールが、豊かな仮想音源分布をもっていることも分かり、近接4点法はコンサートホールの音場計測の新しい手法として着目されている。
 この報告はこの近接4点法のほかに、インパルスレスポンスから抽出できるいくつかの音場パラメーターの測定法とその適応結果をまとめたものである。氏が冒頭に述べておられる“人間の聞き分けられる音の違いは機械にも捉えられるはずである”という言葉が山崎氏の研究への夢を物語っている。この近接4点法は最近のディジタル信号処理の技術がホール音響に活かされた好例の一つといえよう。

◇室内音場計算の現状と展望:古江嘉弘(京都大学) 建築音響研究委員会資料AA90-11
 複雑な室内の音場を扱うのに2つの観点がある。一般的なのが幾何音響という立場で、これは、音がもっている波の性質を無視して、音を粒子として捉らえ、光のように直進し、反射するという仮定から出発する。音場を見事にディスプレイするコンピューターシミュレーションの図形も、幾何音響からの処理なのである。これに対して、音を波動現象として捉える立場を波動音響という。最も単純な直方形の室を考えても室内の空気はオルガンパイプの共鳴が3次元に拡張された共鳴体であり、音源の位置や周波数によって共鳴の起き方が異なる事は容易に想像できる。まして、ホールのような複雑な形となると、思い切って簡易化を計ったとしても、気のとおくなるような計算が必要となる。

 古江氏は長年この計算法に取りくまれ、学会の音場計算法小委員会のまとめ役としても活躍されておられる。この計算には近似的な数値計算の仕方からいくつかの方法が提案されているが、いずれの方法でも、幾何音響では吸音率として単純化している壁や天井の境界条件も、波動音響となるとまずインピーダンスという位相の変化までをいれた反射特性が必要になってくる。実際のホールの条件を取り込んだ計算は、演算時間の問題もあり現実としてはむずかしいと思う。それに、氏がむすびとして述べられているように、波動的に記述された音場と感覚との関連も明らかにしなくてはならない。

 コンサートホールの建設が続いているわが国では、室内音響研究は陽があたっている部門の一つといってよいであろう。コンピューターシミュレーションやモデル実験がマスコミに華々しく登場する時代であるが、一方において、古江氏が取り組まれている音場計算法などといった地味な研究が続けられていることを知っていただきたい。まだ、この計算法と設計レベルとの間には大きな距離がある。しかし、現在、建築音響がタッチしていない100Hz以下の周波数領域での音場の性質など、波動音響の力を借りなければならない時がいずれ到来すると思っている。研究成果が利用できる日を期待している。

◇コンサートホールの音場評価について:森本政之(神戸大学) 建築音響委員会資料AA-12
 戦後の室内音響研究の大きな流れがここで取り上げられている音場評価である。一口にいえば、コンサートホールの音場のパラメーターとしてどの様な物理量があるのか、また、好ましい音場というのはこの物理量でどのように表わされるか、などという課題を追及している研究分野である。ここ約20年にわたって、わが国を含め多くの研究者によって、数多くの音場パラメーターが提案され、現在では整理の段階に入っている。大きな発見は初期反射音と側方反射音の効果であり、その結果は実際の室内音響設計にも導入されている。

 森本氏はこれまでの評価研究に二つの方向がある事を示している。一つは“好ましさ”に関連する評価研究であり、もう一つは音響効果を構成する要素、例えば、音量感、ひろがり感などについての研究である。前者については好ましさに“intimacy派(演奏が身近に、リアルに聞こえてくるのを好む派)”と“reverberant派(豊かな響きを好む派)”があることで、音場の一般的な評価手法としてこの方向は適切ではないこと、これに対して、要素感覚に着目する研究は、体系としてまとまりやすく、評価研究はこの方向に進むべきであるというのが森本氏の見解である。しかし、現在3~4の因子で足踏みしている状況であり、新しい因子の抽出とともに、設計指標として各因子の最適条件の検討が必要であることを結論として述べている。

 音場の評価の問題は室内音響設計にとっても切実な問題であり、学会の成果についてはわれわれも大きな関心を持っている。しかし、実際のホールで演奏をとおして感じる音響効果のニュアンス、たとえば、ホールによる違い、また、同じホールで場所による違い、そして演奏の規模や楽器による効果の違いなどを、現状のパラメーターでどの程度説明できるかとなるとかなり疑問であるといわざるをえない。

 音質評価はオーディオ界でも大きな課題であり、音質評価の手法が検討されてきた。しかし、学問的な評価体系だけでは、よいスピーカは生まれるものではないことは、味の分析をいくらしても、うまい料理はできないのと同じである。響きの設計には、実際のホールで演奏を聴き込むことから生まれる味付けのセンスというか、ヒントが必要ではないだろうか。これは実験室の評価実験からだけでは生まれえないものといっては言い過ぎであろうか。室内音響設計の本来の使命はこの味つけにあると思っている。

  注)あとの三論文の紹介は次号にします。

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◆中日青年交流センターの音響測定完了
 中日青年交流センターは日中友好21世紀委員会の提唱によって、日本政府の無償資金協力と中国政府の資金により北京市郊外に建設がすすめられている文化施設である。本施設は多目的ホール、国際会議場で構成される劇場棟、語学教室、音楽練習室、職業研修教室などで構成される教育研修棟、客室390室のホテル棟および室内プール棟の4ブロックで、施設の総面積は約65,000m2という現在の中国では初めての、また、最大の文化施設である。日本側の受け持ち分はホテル棟を除いた3施設で、その中心が客席数1713席の多目的ホールである。

中日青年交流センター

 本施設の構想が始まったのは中曽根内閣の時代で、日本側の設計者は黒川紀章建築都市設計事務所、施工は竹中工務店で、永田穂建築音響設計事務所は1985年、基本設計の後半から参加し、音響設計、音響関連工事の監理を担当した。1989年に竣工の予定であったが、中国の国内事情から工事が遅れ、今年の秋竣工の運びとなった。音響特性の検査、測定は建築検査の一還として行ったもので、予備測定を今年の5月に、本測定を8月にそれぞれ約10日間にわたって実施した。

 中国の劇場については国際音響学会などの場でも紹介があったが、この種の近代的な多目的ホールは中国にとって初めての事であり、設計側、施工側も現場担当者の苦労はたいへんなものであったことはいうまでもない。永田事務所では、中村、福地が担当したが、音響材料の選定、遮音構造などの特殊構造の施工、そして限られた予算の中で、中国側劇場コンサルタントの過剰な要求への対応、また、音響測定では上意の停電や電圧の低下など、わが国では体験できない苦労があったという報告を聞いている。黒川事務所の波多野次長、竹中の現場事務所の中西所長はじめ多くの方々のご支援により、中国はじめての近代ホールにわれわれの音響設計の意図が実現できた事を感謝している。
 1713席の大ホールはコンサートの条件で空席の残響時間1.8秒、空調騒音はNC-25、階下の国際会議場との間の遮音度は71dB(500Hz)と、わが国の標準的な多目的ホールの性能である。また、現地では清華大学建築学科の王炳麟副教授に音響技術の説明、現場との交渉などで大変お世話になった。王先生は東大生研の橘研究室で建築音響学を研修された中国建築音響の第一人者で、先生自ら北京市で児童劇場の音響設計を担当されておられ、その現場も拝見した。
 たった三日間であったが、初めての中国の印象は強烈であった。泥だらけの現場、メインストリートに溢れる自転車の流れ、国営ホテルと香港系民営ホテルのサービスの格差、アジアオリンピックを目指して建設が進められている近代施設と裏町との対比、しかし、貧しさを越えた生命力、大陸のスケール感など大変な国であることを感じた。

◆オープン迫った東京芸術劇場
 1987年以降池袋駅西口に建設が進められてきた東京都の文化施設が東京芸術劇場として10月30日にいよいよオープンする。この施設は1887席のコンサートホール、850席のプロセニアム劇場を中心に、小劇場2、リハーサル室6、展示ギャラリーなどで構成される大型の文化施設である。建物延べ面積は46,166m2と上野の東京文化会館の二倊以上の規模である。建築設計は芦原建築設計研究所、施工は大成建設を中心としたJVである。
東京芸術劇場の断面

 労務人員の上足から工事はかなり遅れ、オルガン設置工事はまだ進行中である。音響測定も工事の合間をぬって、断片的に行っている状況であるが、大きな課題であった地下鉄振動の遮断、大中ホール間の遮音、大ホールの残響特性などは、設計目標をクリアーしたことを確認している。詳細はいずれ詳しく報告する予定である。
 オープニングシリーズとして、12月までの約30のプログラムが発表された。話題はシノーポリ、フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー・チクルスであることは音楽ファンはご存じであろう。しかし、もうチケットは完売とのこと。12月には在京オーケストラによるべートーベンシリーズが予定されている。中小ホールでは11月に東京国際演劇祭がある。


永田音響設計News 90-9号(通巻33号)発行:1990年9月25日

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