チェコ共和国のブルノ(Brno)市の新コンサートホールの設計始まる
2018年1月15日、カトヴィツェ(ポーランド)の建築事務所、コニオア・スタジオ(Konior Studio (Katowice, Poland))と、ブルノ(チェコ)の建築事務所、フルシャ建築設計アトリエ(Architekti Hrůša & spol., Atelier Brno (Brno, Czech Republic))と永田音響設計(Nagata Acoustics America (Los Angeles, U.S.A.))の3社は、チェコ共和国のブルノ市の新しいコンサートホール Janacek Cultural Center の設計を行う共同企業体を結成し、その契約式を行った。プロジェクトの中心となる新コンサートホールは、地元のオーケストラ、ブルノ・フィルハーモニック(Brno Philharmonic Orchestra)の新しい本拠地として、設計開始時点においては1250席以上を確保することが約束されている。2022年の完成、オープニングが予定されている。
ブルノの新コンサートホールは、永田音響設計が Tomasz Konior 率いる Konior Studio と共同で行う3つ目のプロジェクトで、ポーランド以外では初めてのものとなる。永田音響設計は、新コンサートホールの室内音響の設計から建設工事監理までの一連の音響設計監理を担当する。
新コンサートホールの敷地は、スピルバーク城(Špilberk Castle)の西側に位置し、現在ブルノ・フィルハーモニックが本拠地としているコンサートホール Besední dům から至近の距離にある。かの有名なウィーンの楽友協会ホールを設計したデンマークの建築家 Theophil Hansen によって1870年代の前半に設計された現在のコンサートホール Besední dům は、長い間、ブルノ市の文化の中心であった。そして、ブルノに住み、ブルノで活躍したチェコの作曲家、ヤナーチェク(Leos Janacek)の音楽人生とも深く結びついていたのである。しかしながら、このホールは当初はコンサートホールとしてではなく単なる文化センターとして建設されたため、ステージや客席の大きさがオーケストラの幅広いレパートリーに対応できるだけの十分なものではなかった。客席数はおよそ500席(平土間移動席)で、オーケストラが必要な客席数を十分確保できるとは言い難い。
最初の建築設計コンペは2003-2004年に実施されたが、その直後にプロジェクトは計画困難に直面しストップした。プロジェクトの第一段階(Phase I)にあたる地下の駐車場部分に対して建築許可が下りたのは2014年になってからであり、その後まもなく工事が開始された。そしてその間、地元のプロジェクト担当局は、新ホールの客席数を1000席以上に増やすことと、元々のコンペ実施時から10年の間にヨーロッパ各地でオープンした新しいコンサートホールの傾向を設計に取り入れるように計画の変更を行った。第二段階(Phase II)の建築設計コンペが2016年に計画され、翌2017年にはKonior Studio-Atelier Brno-Nagata Acousticsの共同企業体が選定されたのである。
設計チームは現在、新デザイン・コンセプトに基づくコンサートホールの設計(Phase II)作業と、工事が先行している地下駐車場部分との接続に必要な調整を行っており、Phase II の建築許可取得をめざしている。この後の詳細設計(Design Development)段階においては、音響模型実験も行う予定である。
施主やオーケストラからの希望や敷地の制約条件等も考慮に入れて検討された結果、新ホールの客席デザイン・コンセプトは、正方形に近い平面形状に三段重ねの段々形状に配置した客席(テラス)とバルコニーを組み合わせることによって、垂直方向に客席配置を行うこととなった。バルコニーはホール客席内のコーナー部分では壁から離して配置し、ホール内の音響的な容積を最大限有効に活用できるようにした。ステージは大型オーケストラに対応できるような広さを確保し、ステージ上の指揮者がホールのほぼ中央近くになるような平面配置とした。また、小型のアンサンブルの場合にはステージ背後により多くの観客を配置できるようにした。
ホール部分全体は地上レベルから上に持ち上げられてホール下部に広いロビースペースが配置され、東側のホール表方(聴衆入口側)と西側のホール裏方(舞台側)を結んでいる。ホール表方のロビー・ホワイエスペースはガラスで覆われており、外光や街並みの眺めを楽しむことができるとともに、ガラス窓を通じてホール内部とも視覚的に繋がっている。(Marc Quiqurez 記)
プロジェクト情報(英語)
ブルノ・フィルハーモニック(英語)
コニオア・スタジオ(英語)
フルシャ建築設計アトリエ(英語)
故 永田 穂 お別れの会
本ニュースの先月号でお知らせしたとおり、弊社の創立者である永田 穂(享年93歳)が去る8月7日0時46分に肺炎のため息を引きとりました。そのお別れの会を9月26日、サントリーホールのブルーローズで行いました。はじめに建築家の磯崎 新氏、音楽関係者として国立音楽大学の元学長の野紀子氏、そして、NHK在職時代からの長いお付き合いとなる弊社前社長の中村秀夫氏からお別れの言葉を頂戴しました。その後、オルガニストの今井奈緒子氏 他の皆さんの献奏で、故人が大好きであったパイプオルガンの調べとともに、親交のあった多くの方々とお送りしました。
永田は1925年(大正14年)に福岡に生まれました。その後、上京し、東京大学 第一工学部計測工学科に進学、1949年に卒業しました。同年4月にNHKに入局し、長野放送局に勤務した後、技術研究所 第一部(後の音響研究部)に配属、音響研究部長などを歴任しましたが、1971年6月にNHKを退職しました。同年7月に永田 穂建築音響設計事務所を創立、1974年には法人化し、代表取締役社長となりました。1993年7月には社名を現在の株式会社 永田音響設計に改め、1994年9月に代表取締役社長を退き、取締役 特別顧問となりました。特別顧問という肩書きは永田が会長とか相談役とかの役職名を好まなく、自身で決めたものでした。今考えれば、生涯現役を貫く証として用いたものだったのかもしれません。
NHK技術研究所で、永田は故 牧田康雄先生の指導のもと、設計資料もなく、海外のホール事情などまったくない中、旧NHKホールの音響設計を手探りの状態で開始したそうです。1951年のことです。そして、武蔵野音楽大学 ベートーヴェンホールと東京文化会館という我が国を代表するコンサートホールの音響設計業務を通じて、今日の建築音響設計の体系がほぼ確立したといっています。東京文化会館の完成が1961年、ニューヨークのフィルハーモニックホールが1962年、ベルリンのフィルハーモニーホールが1963年と、新しいコンサートホールがほぼ同時期に完成していること、それらのホールの評価を考えると、当時の我が国の音響技術のレベルの高さがうかがえます。また、同時に建築家との協働作業という流れの中でも、音響設計の主軸がぶれることなく対応でき得る体制が作られていたことにも驚かされます。
その後、永田は1963~1964年の西ドイツ留学中に、ゲッチンゲン大学で室内音場における初期反射音の構造と音響効果についての組織的な研究を体験し、その成果が今後の室内音響設計の基幹となる検討課題であることを強く意識したそうです。その間、時間を作っては欧州各地のホールに出かけ、当時の日本の多目的ホールでは体験できなかったコンサートホールの響きの違いを肌で感じていたようです。実際のコンサートで感じた聴取体験、そこで感じた貴重な体験が「音と響き」への取り組みの出発点でもあったかと思います。
1965~1970年代には技術協力として万国博でのアストロラマ超立体音響システムや国立劇場、皇后陛下御還暦記念桃華楽堂、新NHKホールなどをはじめ、多くの市民会館の音響設計に参画しています。これらの技術協力を通じて、音響材料、音響測定方法の整備とともに、多目的ホールの音響設計法の確立に貢献していきますが、それは独立して音響コンサルティングの事務所を設立しても続くことになります。騒音制御に関しての鉄道・地下鉄からの固体伝搬音の対策、高性能遮音構造、空調設備騒音の低減化から、室内音響に関しての残響時間とその制御、初期反射音の効果と音場パラメータ等に絡む響きの構造、電気音響設備の機能と性能の設定等、そしてコンサートオルガンに関することまで、設計の実務で直面した様々な音響的課題に対して取り組み、その指針を示してきました。音環境の快適性がどうかは、すべて設計者、使用者の音に対しての「感性」にかかっていると記していましたが、それは自身が大切にしていたことで、すべての原点になっていました。
永田は設計に必要な情報の整備が重要との観点から、文献、資料等の収集と整理には大変熱心で時間をかけていました。今では検索エンジンがあり、考え難いことですが、文献、資料の内容を大、中、小分類と分け、マトリックスにした分類コードで検索するというシステムです。仕分けされた資料は自作の資料用の特注封筒に入れ、ファイルボックスに仕分けし、保管するというものでした。「大きな組織と違い、小さな事務所には向こうから情報はやって来ない、こちらから出向いていくことが大事と」常々言っていましたが、それらの情報はいつも活用できるようにと、その整理、バックアップを常に考えていました。それが今でも本棚にぎっしり詰まっています。ワードプロセッサーが発売されると、すぐにそれを導入し、原稿等を納得のいくまで書き直していましたが、新しいものを駆使し、上手く活用していたことを考えると、検索エンジンがもう少し早い時期に使えるようになっていたら、どんな展開になっていたかと思い巡らさずにはいられません。ただ、分類マトリックスも次から次に新しいバージョンに組み替えられていましたから、収集した資料を系統的に仕分けること自体を楽しんでいたようにも思います。
この音響関係の収集文献一覧表から永田の研究の一部をご紹介すると、1956年の「室内の換気騒音について」、1958年に「円形断面換気ダクトの音響伝搬特性について」、1959年には「遮音測定にLONDONの式を適用する場合の二三の問題」、「有意騒音に対する許容音圧レベル(遮音設計のための)」、1960年の「現場で測定した隔壁構造体の透過損失について」、1962年の「遮音設計において多数の騒音源がある場合の各騒音源のエネルギーの寄与の設定について」、1965年頃には「コンクリート構造体中の衝撃振動の伝搬特性」や「内装構造壁の放射特性」など、遮音設計や設備騒音防止のための基礎的な研究が行われています。その間、「空気伝搬音に対する遮音設計法」や「ホールの遮音設計法について」をまとめており、現在用いられている「静けさ」実現のための騒音防止設計の基になるものが、この時期にほぼ完成しています。
そうして、NHK時代からの「音と響きに関する仕事を続けたい」との強い思いと、日常的なコンサートでの「聴取体験」が、今日の基本的な考えとなっている初期反射音に着目した室内音響設計へと実践され、その後のホールの設計に活かされ「よい響き」の源泉となっています。また、拡声設備として発展した電気音響設備においても、その当時の実態からその音量だけでなく、音の心地良さ、その音質を問題提起しています。音声情報の伝達を目的とした拡声設備はハウリングの制御と明瞭度の確保が基本的課題でもありましたが、電気音響設備を電気的な性能だけではなく、基本的な性能である音量、音質、分布性状、明瞭さなどの設計基準を設定するとともに、建築空間の機能から騒音、室内音響特性、技術者の技術レベルなどまでも考慮に入れた設計を考えていくことで、「よい音」の実現を目指していました。
「静けさ、よい音、よい響き」は音響設計が目指すものとして、この3つのテーマが建築空間で取り組むべきものとして掲げています。また、コンサートホール、劇場は音響効果も非常に重要ですが、建築も美しくあるべきだと考えていたと思います。それぞれの建築家には独自のスタイルがあり、建築家の素晴らしいデザインを実現するために、どのように建築家を支援し、協働していくか、我々音響コンサルタントの重要な役割です。そして、建築と音響の調和を重視し、建築意匠に融合した音響性能の実現を目指すという姿勢、その「柔軟性」も大事にしていました。
最後に、ビジネス的展開ということに関して、特記すべきは技術報酬についての取り組みです。小集団の技術事務所としての業務を収益性、技術的興味、社会貢献度等から位置付けるとともに、音響コンサルティングの事務所として技術を提供する、「技術成果を堂々と売る」という姿勢を打ち出していました。成果に対しての技術報酬、まだまだ確立したとは言えませんが、その算出根拠を明確にした技術報酬規定をまとめています。経験と勘が頼りの面もある音響コンサルティングという業務に対して、現状の研究成果と技術を把握し、設計資料のグレードを揃える等を目標に、その基盤を、そしてその対価としての技術報酬までも整えることで、音響コンサルタントの地位確立に貢献してきた功績に感謝するとともに、哀悼の意を表します。(池田 覺記)