駒澤大学音楽練習室の完成
駒澤大学といえば箱根駅伝の常連出場校としておなじみで、サッカー・野球など、幅広い分野のスポーツ活動が盛んである。昨夏の高校野球であのハンカチ王子と歴史的な激闘を繰り広げ、日本中の注目を集めたのも、同大学の附属高校である。
駒澤大学のメインキャンパスである駒澤キャンパス(東京都世田谷区)は、駒沢オリンピック公園に隣接し、住宅がこれらを取り囲んでいる。キャンパスに面した駒沢公園通りには、学生をはじめ、公園で一汗かいたランナー、子供や愛犬と散歩する地元住民など、幅広い世代による賑わいがみられる。そのような環境の同キャンパスに今春1月、学生サークル等の学内音楽団体の練習利用を目的として2005年春より計画が進められてきた音楽練習室が完成した。
施設計画の背景
放課後、昼間の賑わいが無くなると、住宅街に囲まれた大学周辺はかなり静かになる。そのため、大音量を発生する学生サークルの練習については、教室の利用時間との兼ね合いや窓の開閉等、厳重な注意が必要だった。そこで、学生サークルが心おきなく練習できるように、倉庫として使用されていた地下空間に練習室を設ける案が大学管財課によって提示された。地上階は事務室や教室であるため、音漏れによる支障が出ないようにする必要があり、これが本プロジェクトの大きな課題であった。
施設概要
本施設は、駒澤キャンパス内本館の地下1階の一部(約1,400m²)を、学内音楽団体のための音楽練習室および楽器庫へと改修したものである。細長い廊下の両側に配置された13の練習室は大小様々で(床面積21〜73m²)、個人練習やパート練習などに使い分けることが可能である。シンプルな直方体の空間に赤、青、緑などのカラフルな扉や床の円形模様が加わったそのデザインからは、地下にいることを感じさせない明るい印象を受ける。改修工事前の雑然とした薄暗い倉庫の印象と比べれば尚更である。建築設計は(株)エンジニアリングサービス、施工は(株)熊谷組で、永田音響設計は遮音計画を主とした音響計画と工事監理、測定を行った。
遮音計画(1)−改修前調査−
設計の初期段階で、地下構造の遮音性能調査と、施設を利用する予定の軽音楽サークルおよび應援指導部による演奏音の確認を実施した。これらの目的は、遮音性能と演奏音レベルの物理量を測定するだけでなく、それらを聴感的に確認することにより、施主と設計者のあいだで遮音性能に対する共通の認識を持つためでもあった。
調査の結果、地下階と上階の遮音性能はDr-55で、演奏音レベル(等価騒音レベル)については63〜1kHzの広い帯域で100dBを超え、ベースギター・ドラム、そして應援指導部の声援までもが上階で聞こえた。とくに應援指導部による大太鼓の音は躯体を通して振動が足下に伝わるほどで、関係者一同が防振工事の重要性を実感した。
遮音計画(2)−防振遮音構造の採用−
既存地下室の改修工事という限られた条件の中、可能な限り高い仕様の防振遮音構造を採用した。防振遮音工事を担当したのはヤクモ(株)である。
右図のように、既存躯体への振動伝搬を防ぐため、各練習室の床を防振ゴムにより支持し、壁と天井をその床上に組みあげた。既存躯体と音響的に独立した箱状構造となった練習室の周りを、既存の天井・壁や増設した乾式壁がさらに囲み、遮音構造を構成している。また、練習室の扉開放時や廊下における演奏を想定して、廊下も防振遮音構造とした。床をMAFF工法による防振支持、天井を既存天井からの防振吊り、地下室のために大掛かりになっているダクトについても同様の防振吊りとした。
改修後の室間遮音性能は、1階事務室とその直下の練習室間でDr-75〜80、離れた練習室とのあいだでDr-85以上、廊下とのあいだはDr-60〜70である。隣接した練習室間については、ほとんどがDr-85以上であった。
工事後の評価と今後
工事完了後、この春からの利用に先立ち、関係者が見守るなか、軽音楽サークルと應援指導部による演奏が再び実施された。應援指導部によって先代から受け継がれてきた力強い校歌の演奏音については、暗騒音の影響もあって、直上階では大太鼓の音がかすかに聞こえる程度まで低減された。これにより、これまで音量を気にしながら練習してきた学生達は、思う存分に演奏できるようになった。
防振遮音工事という裏方仕事の結果は、完成後には利用者から直接見えなくなり、また逆に、工事関係者が利用者の表情を見られる機会も少ない。本計画では、改修前後に演奏音を確認する機会が設けられたことで、施設利用者と工事関係者が、施設の性能やこれからの施設利用の可能性を実感、共有できたのではないかと考える。この恵まれた環境が最大限に活用され、多くのミュージシャン達がここから輩出されていくことを期待する。(服部暢彦記)
「いわきDIAMONDプロジェクト」卒業ライブ開催
晴天に恵まれた1月28日、いわき市平市民会館で「いわきDIAMONDプロジェクト卒業ライブYAZZO!2」が開催された。
このプロジェクトは、来年春に第1次オープンを迎える「いわき芸術文化交流館/ALIOS(アリオス)」の建設を機にいわき市が主催したもので、催し物を鑑賞するだけでなく、市民自らイベントを企画したり、舞台の裏方として関わったり、アーティストとして舞台に立ったりするための基礎知識や技術を学ぶ「市民アーティスト養成講座」である。舞台芸術創造への興味を市民に芽吹かせ、未来のいわき市の舞台芸術活動の担い手となる人材=ダイアモンドを発掘しようという意図がある。
昨年度に引き続きイベント企画・運営コース、舞台照明コース、舞台監督・大道具コース、表現者コース(今回のテーマはヒップホップダンス)の4講座が開催され、20代の女性を中心に10才から71才まで、何と約200名の受講生が集まった。約5ヶ月間、各分野の第一線で活躍する講師陣による講義やレッスンを受け、その成果を実践するのが卒業ライブである。
開場前から市民会館前は受講生の家族や友人たちで長蛇の列となっていた。それを誘導するイベント企画・運営コースの受講生達の応対や気配りからは、沢山の観客の来場を喜ぶ気持ちがとても強く感じられた。いわき市の担当職員も総出の対応である。
ゲストのパフォーマンス後、満員の観客を迎えていよいよ卒業ライブの幕があがった。幕類が吊り上げられた裸の舞台に、モップが掛けられ、自作の大道具が配置され、袖の照明器具にカラーフィルタが差し込まれていく。裏方の作業も演出のうちである。そうして準備が整った舞台で、ソロダンスに始まりストンプ、ブレイクダンス、ヒップホップダンスなどが次々展開された。いずれも踊ることの楽しさが溢れ出た熱演で、会場からも大きな声援が飛んでいた。
ライブに引き続き会場で行われた卒業式では、受講生代表が「何もすることなく過ごしていたが、この講座に参加して毎日が変わった」と生き生きと挨拶したのが印象的だった。また、世代を超えた受講者同士のつながりができているのも感じられた。未来を担う人材育成という目的設定と受講生が企画・実施する卒業ライブの制作過程が評価され、本講座は(社)日本イベント産業振興協力会主催の日本イベント大賞(制作部門)を受賞した。受講生や関係者は大変喜ばれたことだろう。
平市民会館は築後40年が経過した会館であるが、受講生たちのエネルギー溢れるライブの最中には、建物の古さなどまったく気にならなかった。そこに集う人こそがホールや劇場の生命力であることを改めて実感した催し物であった。本プロジェクトの今後は未定とのことであるが、新しい芸術文化交流館と共に、ハードとソフトが二人三脚で発展していくことを期待したい。(内田匡哉記)
札幌市民会館の閉館に思う−札幌交響楽団のさよならコンサート−
今年の1月19日(金)の夕べ、3月の閉館が決まった札幌市民会館ホールにおいて、札幌交響楽団によるさよならコンサートが行われた。
開演前の広場には人があふれ、尾高忠明さんの指揮で始まったコンサートは満席であった。曲目は「フィガロの結婚序曲」、「交響曲第5番運命」、「交響曲第9番新世界」の3曲で、アンコールに「G線上のアリア」が流れた。アリアのあとに続いたしばらくの沈黙のあいだ、指揮の尾高さんも感極まっておられたことと思う。目頭を押さえた方も少なくなかった。
演奏のあと舞台に立たれた上田文雄札幌市長の挨拶も感動的であった。札幌交響楽団はこの会館で生を受け、ここで育ち、札幌コンサートホールKitaraでさらに成長して一流のオーケストラになったから、今宵の演奏は生みの親への恩返しだ、という内容であった。
札幌交響楽団は、市民会館誕生後の1961年に札幌市民交響楽団として結成され、同年9月に荒谷正雄氏の指揮により第1回の定期公演を行っている。当時のホルン奏者で、その後札響の事務局長を歴任された竹津宣男さんの話によれば、楽団は当時東北巡業でいくつかのホールを回ったが、巡業の最後の会場となった札幌市民会館の響きに、楽団員一同は目から鱗がおちたような驚きと感動を覚えたという。
札幌市民会館は、1958年に大通り公園東端のテレビ塔脇にオープンした1592席のワンフロアのホールで、クラシックのコンサートから一般の催し物まで、多目的な使用を意図した文化施設である。側壁に残響可変装置が設置され、当時としては斬新な会館であった。今回の演奏でもリハーサル時はパネルを吸音側に設定していたとのことで、この可変装置の導入によって響きの細かな設定が実現できたことの功績は大きいと思うが、この会館の響きの秘密は別にある。演奏を聴きながらいろいろと思いをめぐらしてみた。
この会館の響きには、最近のKitaraホールやサントリーホールのような華やかさは無いが、密で芯があり、ステージ空間から音の束が飛んでくる感じがする。私見であるが、その秘密は、東京文化会館のような舞台反射板の拡散構造と、舞台天井から前方客席上部にまで張りだしている天井反射板にある。これは今や、一般の多目的ホールとしては実現が難しい構造である。なぜこのような音響の教科書どおりの空間が実現できたのであろうか?その理由のひとつには、本格的なオペラや演劇に対する要望や主張が当時まだ十分にまとまっていなかったことがあると思っている。各種用途のあいだで相反する多様な要望を満たしていくことで、その後の多目的ホールは特長をそぎ落とされていったのだと思う。
札幌市民会館は、建築構造上の理由でやむなく約半世紀におよんだ歴史を終えるが、市民にこれだけ愛され親しみを持たれた文化施設も数少ないのではないだろうか。ここで生まれ育まれたものは、間違いなく次の世代に伝承されていくはずである。(永田 穂記)