千年の森ホールのオープン <千手中央コミュニティーセンター>
新潟県中越地方といえば代表的な豪雪地帯、それに、2004年10月の大震災を記憶されている方もおられよう。この地区の十日町市は、上越新幹線の越後湯沢駅でほくほく線に乗り換えて十日町駅まで東京から約3時間と、地名のイメージほど遠くない。十日町の信濃川西岸に位置する十日町市川西町 (計画当時、中魚沼郡川西町)に、4月6日の賑わい空間の総合竣工式に合わせて、千手中央コミュニティーセンターがオープンした。
地方都市とその周辺部の過疎化は今も大きな課題となっているが、旧川西町地域も、出生数の減少と新規学卒者の市外流出および高齢化の状況にあって、従来から過疎地域として指定されていた。このような中、旧川西町は1997年より、中心市街地の活性化への取り組みとして、人の賑わう魅力的で、多様な空間の創出を目指した「賑わい空間創出事業」を展開してきた。すなわち、中心部の道路拡幅、温泉施設とその関連施設、文化・学習施設、店舗などから回遊道等の集中整備である。そうして、賑わい空間エリアには「ひだまりプール」、「千手温泉・千年の湯」、「千手郵便局」、「川西商工会館」、「千年の市」、「はあとふる川西」等の施設が整備された。徹底した住民主体の計画づくりを実現するために、住民参加による作業が進められたという。このマスター計画に関係し、温泉やコミュニティーセンター等の設計・監理を実施されたのが山口大学内田文雄教授と(株)龍環境計画である。
千手中央コミュニティーセンターは既存施設の改修に伴いホール部分が増築された施設で、3F建ての改修棟の会議室、集会室、調理室、図書室等と増築棟の多目的ホールからなる。千年の森ホールと呼ばれる多目的ホールはプロセニアム型の舞台に187席の移動観覧席付きの平土間形式で、約250席規模の小ぢんまりとしたホールである。フライタワーを持つ舞台には舞台反射板が設けられており、客席は1段のコの字型のギャラリーを持つ。穴寸法が110mm角の化粧穴あきブロック積みのホール側壁と朱色の天井ボードが印象的で、落ち着いた雰囲気のホールである。このホールの残響時間は、舞台反射板設置時1.0秒(500Hz、満席時)、舞台幕設置時0.8秒である。緞帳は珍しく書家のデザインで、地元出身の書家、平野壮弦氏が5市町村の合併をイメージして描いたと言われる「五福祥応」という作品である。
先行した温泉等の施設の賑わいはなかなかなようで、多様な施設群がそれぞれ補完しながら市街地の賑わいが蘇れば嬉しいことである。ホールが住民の身近な施設として利用され、日常的な文化・学習の場となることに期待したい。(池田 覚記)
遠野市みやもりホール
岩手県宮守村と遠野市との合併による施設整備として進められていた文化交流施設「みやもりホール」が竣工し、4月21日に落成記念式典が行われた。
東北新幹線新花巻駅より釜石方面に向う釜石線で約20分のところに、宮守駅がある。この釜石線、愛称を「銀河ドリームライン釜石線」という。遠野市と言うと河童伝説など民話のふるさととして有名であるが、この地をこよなく愛した宮沢賢治のゆかりの土地でもある。賢治は文学、農業、地質学、音楽など多岐にわたって才能を発揮したが、文学では童話の傑作をいくつも残している。
賢治の作品の中でも傑出する「銀河鉄道の夜」は、宮守にある釜石線のめがね橋(達曽部川橋梁)をモチーフに、また「風の又三郎」は、遠野の学校をモデルとして宮守を舞台に創作されたといわれている。めがね橋は牧歌的な景観に溶け込んだ堂々としたアーチ型の橋で、夜行列車が通る光景は空に向かってレールを延ばしているように見えるという。釜石線の愛称は、この「銀河鉄道の夜」に由来している。宮沢賢治は人工の国際語であるエスペラント語に興味を抱き、岩手県をイーハトーブと呼び、作品の中にもエスペラント語の名称を用いている。それにちなんで釜石線の各駅にはエスペラント語の愛称がつけられ、JR東日本の観光企画のポイント作りとして各駅にはその駅名が書かれた看板がある。宮守駅はガラクシーア・カーヨ(Galaksia Kajo)で、「銀河のプラットフォーム」という意味らしい。
この駅、普段は無人で列車の到着時間に近所の人が改札係としてやってくるが、夕方5時半を過ぎると駅舎を閉める。ある大雪の晩のこと、閉まった駅舎の裏に回って薄暗いホームに出て列車を待っていると来るはずの列車が来ない。誰もいない雪の降るホームで不安を募らせ出発時間を確認できる時刻表を探したが無い。そこには真新しい看板で「銀河のプラットフォーム」とあった。「銀河」には時刻表はないらしい。
みやもりホールは、めがね橋から10分ほど歩いたところの小高い丘の中腹に建っている。外観では楕円形のホールフライタワーが印象的で、外壁が木質で仕上げられており、大きな切株に見える。設計は久米設計東北支社、施工は西松建設である。
本施設は、コンクリート造部分と木造部分に分かれ、コンクリート造側(ロビー写真左側)には、300席固定の多目的ホールと、練習室にも利用できるよう遮音性能を高めた楽屋があり、共通のロビーを介した木造側(ロビー写真右側)には、遠野市が推進している木材をふんだんに使った大会議室(愛称:べごっこホール)、展示室、創作室などがある。多目的ホールとべごっこホールはどちらも特別な遮音構造を採用していないが、80dB/500Hz以上の高い遮音性能を確保している。コンクリート造と木造で構造体が異なることで固体音の伝搬が低減されるためであろう。遮音には、構造体の縁を切ることが効果的ということが良く解る。
展示室では、「宮沢賢治と遠野」と題して、落成を祝って市民から寄贈された「風の又三郎」に係わる書簡やヴァイオリン、レコードなど、宮沢賢治に関する資料を展示している。この特別展は展示品を入れ替えながら来年の3月31日まで開かれている。宮沢賢治ファンは必見である。(小野 朗記)
英国音響学会(IOA) Auditorium Acoustics 2006
本年5月5日から7日にかけて、英国音響学会ホール音響部門の第6回国際会議(Institute of Acoustics Auditorium Acoustics 2006)がデンマークのコペンハーゲンで開催され、永田音響設計から豊田、小口、箱崎、菰田の4名が参加した。
近年のコペンハーゲンは大規模な劇場やホールの建設ラッシュである。オペラハウスが2005年1月にオープンし、新しい王立劇場が2007年の秋、またデンマーク放送(Danish Radio、以下DR)のコンサートホールが2008年初めのオープンを目指して、施工が進められている。
講演は、ステージ上における音響特性の分析と設計、天井反射板の効果、舞台機構の騒音制御、オペラハウスの音響設計、コンピュータシミュレーションと可聴化システムの紹介、実験室機材やコンピュータシミュレーションによる音場の再現、ホール等の改修の実例、演奏者による音場の評価、残響可変システムの実例など、30件を超えた。当社からは豊田がDRコンサートホールの音響設計について発表した。
ポスターセッションでは、ホールや劇場の実例の紹介を中心に24件の展示があった。各ポスターは、初日の午後に設けられたセッションの時間内だけでなく、会期中は会場にそのまま設置されていたので、講演の合間等にそれらを前にしながらいつでもディスカッションすることができた。当社からは菰田がDRコンサートホールの音響模型実験の内容を紹介した。実験で使用した小型の無指向性スピーカ(本ニュース2003年12月号でも紹介)に対する関心が高く、ユニットの仕様など、多くの質問を受けた。
会期内に施設見学がいくつか行われた。新しいオペラハウスは、最大1,703人収容の多面舞台、オーケストラピットおよび多層バルコニー席で構成された典型的なスタイルの劇場と、数多くのリハーサル室から成る巨大な建物で、海運業で成功した個人が莫大な私財を投じてウォーターフロントに建設し、デンマーク国民に寄付したものである。
クイーンズホール(The Queen’s Hall)は、1999年に増築された王立図書館(その風貌から黒いダイヤモンドとして知られる)建物内の、最大600人収容の多機能型のホールである。壁には残響調整やステージ上への反射音をサポートするための機構が組み込まれており、今回はそれらを使用しながら、参加者自身によるピアノとヴァイオリンの演奏が行われた。
デンマーク工科大学(DTU)内の無響室等の見学に引き続き、DRコンサートホールでは、プロジェクトマネージャーによるビデオを使用した施設の概要説明や、施工中の現場内および音響模型の見学が行われた(現場の様子は本ニュース2005年11月号で紹介)。
以上、講演等の発表の中に目新しいものは少なかったように思うが、まだお会いしたことの無かった各国の研究者やコンサルタントと意見を交わす機会が得られ、個人的には有意義に感じた3日間であった。(菰田基生記)
- 英国音響学会:http://www.ioa.org.uk/
- デンマーク放送コンサートホール:http://www.dr.dk/drbyen/english/default.asp
牧田先生を偲んで
お元気だった牧田康雄先生が5月12日、杉並区の東京衛生病院でお亡くなりになった。享年93、既に遺言で葬儀不要、献体を宣言され、先生らしい最期を迎えられた。
牧田先生は1951年、大阪大学からNHK技術研究所に研究員として招かれ、当時の組織変更で誕生した音響研究部建築音響研究室主任として着任された。のちに音響研究部部長、放送科学基礎研究所所長を歴任、1968年にNHKを退職されるまで、NHK技術研究所の音響研究の推進、発展に貢献された。一方で先生は九州芸術工科大学の設立に参画され、1968年に音響設計科教授に就任、1978年に退職されるまで、国立大学としては初めての音響学科の礎を築かれ、多くの音響学者、技術者を世の中に送り出された。
先生がNHK技研に着任された1951年といえば、巷にはまだ戦後の荒廃、混乱がくすぶっていた時代である。当時、建築音響研究室の最大のテーマは、JOAK放送会館(新橋)の一角に計画が進められていた630席のNHKホールの音響設計であった。NHKとしては初めてのコンサートホールである。ホールの音響設計資料、海外ホール事情など全く無かった時代、牧田主任の指導のもと、手探りの状態で音響設計が開始された。
このホールは1956年にオープンし、ここでの演奏が電波に乗って全国の家庭に届けられたのであるが、1973年、NHKが渋谷の放送センターへ移行するとともに、このホールは姿を消した。17年という短い期間であったが、LP時代やFM放送が始まる前に、わが国のクラシック音楽の浸透に果たしたこのホールの功績は大きいと考えている。
建築音響研究室で引き続き開始された武蔵野音楽大学ベートーヴェンホールと東京文化会館の音響設計業務によって、今日の建築音響設計の体系がほぼ確立された。建築設計という多様な機能と要求が交差する流れの中で、建築家を相手にどのような内容の音響条件をどの時点で織り込むべきか、今となっては当たり前となっている音響設計の進め方に明快な筋道を示されたのが牧田先生である。
東京文化会館は1961年にオープンし、本年4月に45周年を迎えた。各地に新しいコンサートホールが誕生している今日でも、このホールの響きは‘Bunka Kaikan Tone’として海外でも高く評価されている。当時、建築音響技術をバックに設計された海外の著名ホールの音響の評価が芳しくなかったことを考えると、東京文化会館の成功は奇蹟ともいえる。しかしこの会館には、今日の建築音響技術のエッセンスが集約されていた。残響時間や遮音構造の設計だけでなく、鉄道騒音・振動を考慮した大・小ホールの配置計画など、わが国の風土事情に関わるホールの課題が取り上げられ、建築の基本計画に反映されていたのである。
牧田先生の指導により誕生したベートーヴェンホールと東京文化会館は、今日の永田音響設計の源泉である。
ところで音響といえば、常に主観的・感覚的な領域と隣り合わせている世界である。建築に関わる音響に関しても、我々はつい経験的な知識に安住し、さらに感覚的な領域に逃げ込むおそれがある。牧田先生が厳しく言われたことはこのけじめである。一口にいえば、常に物事の本質に潜む構造を見極めよ、哲学を持て、という教えであった。
7月8日、NHK関係者と九州芸工大のお弟子さんを中心に、先生を偲ぶ会を中野サンプラザで開催した。参加者は130名、先生のお写真を囲んで、各自それぞれの思いで先生とのお別れのひとときをもった。(永田 穂記)
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