No.148

News 00-04(通巻148号)

News

2000年04月25日発行
千葉ぱるるホール 客席

千葉ぱるるホールの誕生

 JR千葉駅から徒歩1~2分の至近のところに、約720席の中規模コンサートホール「ぱるるホール」がオープンした。全国各地にある郵便貯金会館ホールと同様、郵政省によって建設されたものである。地域文化活動支援施設として造られたこの施設の名称は「ぱるるプラザ千葉」で、10階建のビルの中にコンサートホールの他、プール、アスレチックジム、会議室、レストラン、郵便局などが同居した複合文化施設となっており、ぱるるホールはその中心的な役割を果たす。建築設計は郵政省官房施設部+構造計画研究所、施工は奥村組他のJVで、永田音響設計が音響設計、監理を担当した。

千葉ぱるるホール 客席
千葉ぱるるホール 舞台

 ホールは一段のバルコニーを持つ典型的なシューボックス型のホールとして計画、設計されており、主要な諸元は、横幅:約16m、長さ:約34m、天井高:約13m(舞台上)、ステージ幅:約16m、ステージ奥行:約8.5mなどとなっている。内装は木質系を中心とした落ち着いたデザインで統一されており、クラシックを中心としたコンサートに相応しいものになっている(図、写真参照)。残響時間は満席時において約1.6秒(中音域(500Hz)にて)である。

 基本的にはクラシック音楽用コンサートホールとして設計されているが、各種演目に対して少しでも幅広く対応できるように、ステージ周辺には多少の音響的な可変や調整が可能な機構を組み込んでいる。具体的には、ステージ上部の天井を開閉可能とし、バトンや舞台照明器具の吊り込みを可能にしている。天井裏は吸音処理してあるので、天井の開閉により音響特性も変化させることができるようになっている。また、ステージ正面壁に反射面と吸音面を組み込んだ開閉可能な扉を設置するとともに、一部にカーテンを設置してその開閉によっても音響的な調整ができるようにした。これら壁部の調整機構は、クラシックコンサートにおける調整に対しても有効に活用できる。

 その他音響上の大きな特徴として、ホール全体に防振ゴムによる浮き構造を採用していることがあげられる。

 JR駅近くの便の良い場所に位置しているだけに鉄道から至近の距離(軌道~建物躯体:最短箇所で約20m)にあり、その振動騒音対策は基本計画時点からの必須事項であった。地中連壁部分にゴム(50mm厚)を設置するとともに、ホールに対して防振ゴムによる全面的な浮き構造を採用した。結果として、鉄道からの振動騒音は全く検知できないレベルとなっている。

 正式なオープニングの5ヶ月前の完工段階において、音響的な調整、チェックを兼ねて、実際に室内オーケストラと観客(工事関係者)を入れてのテストコンサートを実施した。大山平一郎(九響常任指揮者)指揮ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉によるモーツアルト:交響曲第40番他というプログラムであった。リハーサルを通じて、ステージ周辺の音響調整を試みた結果、可変機構が音源に近いだけに、残響時間などの物理的な数値の違い以上に聴感上の効果があることを確認した。ただしどのように使いこなすかについては、実際に耳で聴いたうえでの判断が必要であり、編成や曲目によっても異なる。音響的な可能性は明らかに拡大されるものの、使いこなすにはある程度の試行錯誤が必要である。テストコンサート自体は素晴らしいもので、わずか20名余りのアンサンブルによってホール全体が鳴る印象は圧巻であった。関係者のみによる試聴ではあったが、あちこちで「感動」の声も聞かれた。

ホールの主要な内装配置

 去る2月18日、地元千葉市主催の東京フィルハーモニーオーケストラ名曲コンサートにより正式にオープンした。しかしながら、その後のコンサートのスケジュールは目白押しという訳にはなっていないようである。もっともっと活発に使って欲しい。聞くところによると、運営方針は「貸しホールとしての運用が基本」とのことである。1999年9月号(No.141)の本ニュースにも書いたように、一般的には『貸しホールなら多目的ホール、専用ホールなら自主公演を含めたホール運用』という考え方が基本であるべきと思われる。限られた用途に特化したホールというのは、やはりそれを生かすための特別な使いこなし、戦略が必要なのである。折角できたハードをもっと積極的に、効果的に使いこなす工夫が望まれる。「地域文化活動支援施設」と銘打って建設されたホールなのだから、是非、地元のクラシック音楽文化のメッカとなって欲しい。完成したハードが最大限有効に活用されるためには、適切なソフトが必要不可欠である。ハードは一旦出来てしまえば基本的にはやり直しが利かないが、ソフトは何度でもやり直しが出来るし、次々に新しいものを提案することも可能なのである。  (豊田泰久記)

FBSR会 第12回 技術研修会

 去る2月9,10日の2日間、喜多方プラザ文化センター(7市町村による組合運営)で開催されたFBSR会主催の第12回技術研修会に参加した。FBSR会は、この会場の副館長にこの4月に就任した 薄崇雄(うすき・たかお)氏を中心に北日本地方の音響技術者が集まり、1986年に発足した技術研修会である。今回は会館や放送局、プロダクション、イベント会社、メーカー、輸入代理店などから約130名の音響関係者が集まった。うち46%が関東からの参加者で遠く中部や関西から参加された方もおり、北日本地方の会というよりも全国的な会に発展しつつあると感じられた。これは練られたテーマが実際的で面白く役に立つことや各メーカーの新製品の展示があることが第一の理由と考えられるが、それにも増して様々な音響分野の人たちと語り合えることや運営委員の方々の真摯でパワフルな運営が魅力的だからと思われる。

 本会は、1月に発足した日本舞台音響家協会からの補助金と一人3,000円ほどの会費ですべてが賄われており、終了時に収支決算報告が行われる。実にオープンでユニークな会である。また泊りがけの情報交換会は、多くの音響関係者と長時間、本音で話ができる絶好の機会で、私も時間を忘れ雪中の露天風呂に2時間近くはまって湯あたりしてしまった。今回のテーマは『ディジタルシグナルプロセッサー”ほん等価”』であった。シグナルプロセッサーとはミキサーとパワーアンプの間に挿入するもので、スピーカに対するフィルタ設定やイコライジング、ディレィ、ダイナミックスなどが、アナログプロセッサーでは複数台必要なところがディジタルでは1台で調整できる便利な機器で最近出揃ってきたものである。これを一堂に集め、個性や使い勝手、操作性、肝心の音はどうかなどいろいろ探ってみようということである。まず、小ホールで基本的な機器の解説を日本舞台音響家協会技術担当理事/音響特機の岡田辰夫氏が行い、次に各機器の説明と試聴を大ホールで行った。プロセッサーのみ次々交換する方法で、CDと生演奏(ピアノをバックに鑓水一郎氏(山形市役所)の歌とFBSRバンドの演奏)を試聴した。

 試聴用音源の選定は我々にとっても頭の痛い問題で、各人で好みのCDを選んでいるのが実状である。機器の試聴会などでは生のバンド演奏で聴きたいという声が多いが、毎回同じコンディションで聴けないという問題や、演奏がヘタでも上手すぎても試聴に向かないということを感じている。ところが今回は試聴にピッタリ?の演奏で、機器ごとの特徴がよくつかめた。とくに鑓水氏の歌はいろいろな違いがよくわかった。このほか仙台のトムラシステムの戸村義幸・洋子・良樹氏による音像定位実験が興味深かった。
 最後に全員が感想を述べた。一人の若者から“私は仕事をディジタル卓で始めたので、アナログの音云々といわれても理解しにくい”という発言があった。私をはじめ半数以上のやや年配者には責任を感じるとともに考えさせられる一言であった。ともかく、第12回FBSR会は印象に残る会として有意義に終了した。来年もまた参加したくなる会である。
( FBSR会ホームページ:http://www.akina.ne.jp/~moritaka/fbsr/)  (稲生 眞記)

牧田康雄先生の米寿をお祝いして

 牧田先生は今年米寿を迎えられた。その長寿をお祝いして、3月18日の午後、NHK技術研究所時代、先生にお世話になった建築音響研究室有志が中心となって祝賀の会をJR中野駅前のサンプラザで開催した。当日はNHK関係者31名の他に、学界や業界の方々13名が出席され、お元気な牧田先生ご夫妻との歓談の一時を過ごした。

 牧田先生が大阪大学音響科学研究所からNHK技術研究所に移籍されたのは1951年の2月である。その6月に音響研究部が組織され、牧田先生を主任として建築音響研究室が誕生する。この研究室の最初のプロジェクトが当時、新橋内幸町の放送会館新館の一角に計画された630席のNHKホールであった。このホールは1955年にオープン、内外の演奏家によるクラシック音楽がこのホールから電波となって全国の家庭に届けられたのである。担当者としては忘れられない名ホールであるが、渋谷の新NHKホールの誕生によって、1974年にその幕を閉じた。このホールの設計を通して牧田先生がまとめられたのが、「建築音響」(日本放送出版協会、昭和35年発行)である。わが国では最初のホール音響に関する著書で、私どもには唯一の教科書であった。引き続いての大きなプロジェクトは東京文化会館であった。この計画に牧田先生は基本構想の段階から参画され、チームリーダーとして音響設計を指導された。この東京文化会館の音響設計で、NHK技研の音響設計の手法が確立したのである。

牧田先生ご夫妻

 牧田先生はその後、音響研究部部長、放送科学基礎研究所所長を歴任、1968年の4月にNHK技術研究所を退かれた。当時、九州地区で進められていたのが芸術と科学との調和を目標とする国立大学の構想であり、先生もその具体的な計画に尽力された。この学園は九州芸術工科大学という名称で1968年福岡市に開校する。先生は音響設計科の主任教授として就任、1978年、定年を迎えられるまで教鞭をとられる一方で、音響研究の指導にあたられた。その弟子たちが今、全国各地で活躍している。

 牧田先生はこの歳になられた今でも、勉強を続けておられる。今後の音響研究のありかたを静かに語られるお顔には、複雑な音響現象の中に潜む真理を追求されておられる凛とした厳しさを感じる。お目にかかる度にいろいろな宿題、サゼッションをいただいているが、まだ、お応えできていないことを恥じるのみである。しかし、先生が指示して下さった方向は一生の課題として取り組みたいと考えている。  (永田 穂記)

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