建築音響設計事務所開設40周年をむかえて─永田 穂
戦時中の学生生活からNHK技術研究所へ
筆者が府立高校に入学したのが1942年の4月である。すでに第2次世界大戦に突入していたが、幸いにも2年半の高校生活は自由な雰囲気の中で学ぶことができた。しかし、戦勝の夢に酔ったのも束の間、敗戦の色は日一日と濃くなり、1944年9月、繰り上げ入学で東京帝国大学工学部航空学科原動機専修に入学した。終戦までの1年間は勤労動員、東京空襲などで講義は切れ切れになり、大学で学んだという印象はない。1945年8月の終戦、航空学科は廃止、迷ったあげく、戦時中に創設された計測工学科に翌年4月に再入学した。卒業は1949年3月である。力学、振動論、光学、電磁気学、物理計測、物理実験などの講義はあったが、音響学の講義はなかった。
学生時代の終わりの頃、知人の紹介で、今日のNHK、当時の正式の名称は日本放送協会の技術研究所に実習生として勤務した。その時、これからのNHKはラジオ放送網の拡充が重要になる、音響をやってみないか?という故中島博美氏からの誘いがあり、初めて音響の教科書として岩波全書の音響学(小幡重一著)を勉強し、NHKの採用試験にそなえた。
NHK技術研究所音響研究部での22年間
幸いにも、1949年3月、一般技術職としてNHKに採用され、長野放送局勤務を経て同年10月に世田谷の放送技術研究所に配置された。それから1971年6月30日までの約22年間、筆者はこの技術研究所の音響研究部で過ごすこととなった。島茂雄、富田義男、中島博美、牧田康雄氏という音響の大先輩の指導のもとで、建築音響を中心として、音響の基礎、測定技術、建築音響設計の進め方などを学んだ。わが国の’音響技術事はじめ’というべき時代である。新しい道を開拓しているのだ、という誇りと意識でまとまっていた音響研究部の20年は希望に満ちた楽しい時期であった。
技術研究所の研究方針への疑問、退職の決意かたまる
これまで、放送音響技術の研究という環境の中で20年あまり過ごしてきた筆者の生き方と技術研究所の方針とのギャップを意識し始めたのは、筆者が1年余の西ドイツ留学から帰って2〜3年後の1968年頃である。退職に至った経緯を集約すると、
- NHKは戦後間もなく、ラジオからテレビ放送への移行を経営の基本方針として取り上げ、視聴者拡大を目標に人事、設備、機材の運用体勢の合理化を着々と進めてきた。これと呼応して技術研究所においても、組織の大幅な改革が行われ、1970年に音響研究部の廃止が決まり、音響グループは番組関係技術班の1グループとしての業務を担当することになった。これは音響の質を良くしても、聴取料の増加には寄与しないというNHKの構造的な体質が当時の技術研究所の研究体制を支配していたからである。
- 東京文化会館(1961年竣工)の音響設計で確立した、ホールの建築音響設計の技術協力に関する技術研究所の姿勢が定かではなく、所長が変わるごとにその賛否が変わる事態となり、当時の技術研究所の体勢では、一貫した音響設計を実施することができなくなった。
- 西ドイツ留学中、ゲッチンゲン大学で室内音場における初期反射音の構造と音響効果についての組織的な研究を体験した。その成果は今後の室内音響設計の基幹となる検討課題であることを強く意識したが、当時の技術研究所では、この研究を推進する体勢の構築は筆者自身の立場と学識を考えても実現不可能な課題であった。
- ヨーロッパ放送連合の会議にCR509スタジオの音響改善についての論文を提出したが、個人負担での海外出張も所長から拒否された。そのバックには当時、急速に燃え上がったNHK労働組合に対しての経営者側の怯えがあった。組合運動に翻弄されている経営側の姿勢にNHKへの執着はなくなった。
- この状況のままでは、これまでの音響研究の成果は霧散することは目に見えてきた。ここで、筆者ができることといえば建築音響設計の内容を充実、進展させ、設計資料を拡充し、建築設計の一部としての音響設計の位置付けを確保することであった。
- そのためには、「建築音響設計という柱をたてて、NHKから独立し、音響設計の道を開拓してゆくしかない」音響研究部廃止を一つの契機として捉え、建築音響設計事務所の創設を決意したのである。
一人、自宅で始めた音響設計事務所
幸いにも、これまでの音響設計をとおして、建築設計者、施工者の方々との交流の道が開けたことは、その後の音響設計業務を展開する上で大きな足掛かりとなった。当時、筆者は46才、体力には自信があったが、NHKという一流企業を辞め独立することについては、多くの方が心配され、反対された。ただし、家内だけは賛成であった。
事務所はとりあえず、東中野の自宅の一室、家内とアルバイト女性を加え3人の体勢で出発した。NHKを辞しても委員会の出席、8月の国際音響学会の準備など、それに挨拶回りなどで飛び回っていた。背広の背に汗の結晶が吹き出していた。しかし、その頃の詳細な記録はない。
創設して間もなく、民間の音響研究所として先輩格の小林理研を訪ね、所長の佐藤孝二先生にご挨拶にうかがった。その時の先生のお言葉は今も鮮明である。それは、「永田さん、よい仕事をしなさい。そうすれば、人もお金も自然に付いて来るものですよ」
信濃町のマンションの一室に事務所を構えたのは半年後である。図らずも、技術研究所から現業に転勤したばかりの中村秀夫君が入所し、つづいて、浪花克治君、池田覺君が加わった。乏しいながらも、給与分の収入はなんとか確保するだけの報酬があった。1974年には法人化し、株式会社 永田穂建築音響設計事務所(現:永田音響設計)を設立した。
40年間の歩み
1970年代といえば、EXPO70、東京オリンピックなどの追い風もあって、全国各地に公共ホールの建設が進められ、それに続く80年代のコンサートホールの建設ブームに繋がる。また、ホールがホールを呼んで、永田音響設計の業務は国際的にも評価され、現在、ヨーロッパ、アメリカ、アジア諸国等で音響設計を受注し、展開している。2001年にはLos Angeles事務所(現:Nagata Acoustics America, Inc.)を、2008年にはParis事務所を開設した。今日の状況は筆者にとってまさに予想外の発展である。現在、東京、アメリカ、パリを合わせて、職員19名の体勢である。
ホール音響設計への思い
音響設計には物理的な解析、分析の手法が求められるとともに、感覚の世界にも足をおいたアプローチが必要となる。永田音響設計の成果が国内にとどまらず、国際的にも評価されてきたのはこの取り組み方が評価されたのだと思っている。
残響理論が唯一の室内音場のパラメータであった半世紀前と比べると、音場の解析手法は著しく進んでいる。しかし、いずれの分野でも物理的な世界と感覚の世界とのギャップはますます広がってきている。響きについても同様である。一般の聴衆が感じるコンサートホールの響きの特長、印象を物理的なパラメータで表すことは難しい課題である。筆者は響きの設計に味の世界に通じるsomethingを感じている。”まず、味わってみること、聴いてみて、感じることである。ここが、技術手法展開の糸口となる。”
クラシック音楽の行方、今後の演奏空間について
箱物行政の打ち切りが叫ばれている今日、それにリ−マンショック、3/11の大災害などホール業界には逆風が吹きまくっている。今後のホールの行方はどうなるのであろうか。これは、永田音響設計の大きな関心事である。筆者の見解をここに述べ、40周年のことばとしたい。
約5世紀にわたって、ルネッサンス、バロック、古典、それに続くロマン派で一往の区切りをつけたと思えるクラシック音楽であるが、今後の音楽はどのように展開してゆくのであろうか。歌舞伎の例が示すように、伝統文化としてクラシック音楽は伝承され、その演奏空間は温存されるであろう。規模の大小にかぎらず、音楽専用空間の音響設計には現在の建築音響設計手法で対処できる。
問題は今後の音楽の展開である。ミュージカル、ポピュラー音楽が示すように、電気音響設備のサポート、映像とのコラボレーションはますます浸透してゆくであろう。また、現代美術が示すように各国の民族音楽、民族楽器の導入も考えられる。演奏空間もヨーロッパの大聖堂から、草原、森林、砂漠にいたるまでの様々な響きの空間が登場して来るであろう。
演奏空間の音響効果の基本は第一に音量、そして、明瞭度と響きの豊かさの2軸のバランスである。
「静けさ、よい音、よい響き」とは何かを虚心坦懐に求め、心地よい音環境を目指して歩みを続ける事務所であって欲しい。
大賀典雄さんを偲んで
2011年6月23日、2004年以来館長を勤められた大賀典雄さんの音楽葬が上野の東京文化会館おいて、ソニー株式会社、ソニーグループ主催により、満席の大ホールで行われた。東京フィルハーモニー交響楽団、ソニー・フィルハーモニック合唱団によるモーツァルトのレクイエムはじめの5曲のオーケストラ曲、それに堤剛氏のバッハの無伴奏チェロソナタの1曲が演奏された。
大賀さんとは長くて、しかも不思議な絆で結ばれていた。
大賀さんにお目にかかったのは私がNHK技術研究所に勤務して間もない1950年頃だったと思う。たしか、東京通信工業(現在のソニー)の井深社長とNHK技研の島部長との会談の席であつた。上野の音楽学校卒のバリトン歌手という紹介であったが、オーディオについて私などはついてゆけない内容の話題であった。
大賀さんはソニーに入社以来、出世街道を上り詰めた方、それでも、時々電話をいただいた。ホール音場のこと、なかでも、大賀さんはシューボックスという直方形の空間の音場に最後まで疑問をもっておられた。大賀さんの寄付で生まれた軽井沢の大賀ホールの平面形は五角形である。五角形のホールで自らオーケストラの指揮までされた大賀さん、安らぎの空間を目と耳で確認されたこと、私にとっては何よりの響きの捧げ物となった。
東京文化会館館長を就任されたとき大賀さんからお声がかかり、私はホールの運営委員の一員となった。今となって分かったことであるが、その頃から、大賀さんは健康を損なわれられていらした。文化会館の委員会を欠席されることも少なくなかった。以前の人を圧倒するような眼光は消え、声も力なく優しかった。久しぶりにお会いするせいか、大賀さんの方から手を差し出された。そのとき、体力の衰えが伝わってきた。
経営者として、音楽家として、また趣味の上でも、やりたいことをやり遂げられたとはいえ、やはり、人生の坂道をあまりにも急に駆け登り、力尽きられたのであらう。80代の残された日々をゆったりと軽井沢の大賀ホールで愉しんでいただきかった。ご冥福をお祈りします。(永田 穂記)
カンザス・シティの新コンサートホール
−オーケストラによる最初のリハーサル−
先月、ヘルシンキの新コンサートホール完成とオーケストラによる初めてのリハーサルの様子をお伝えしたばかりであるが、米国ミズーリ州のカンザス・シティでも新コンサートホールの完成を迎え、去る5月18日地元のカンザス・シティ交響楽団(Kansas City Symphony)による初めてのリハーサル(YouTube)が行われた。
Helzberg Hallと名付けられた新ホールは1600席規模のクラシック音楽専用のコンサートホールで、他に1800席規模のプロセニアム劇場とともに、新複合文化施設 Kauffman Center for the Performing Artsを構成する。カンザス・シティ交響楽団はこの新しいコンサートホールのレジデント・オーケストラとして、すべてのリハーサルを含むコンサート活動を行うことが予定されている。
ホール形状は、ヘルシンキ同様、ステージの周囲にも客席を配置したヴィニヤード・スタイルを採用しているが、ヘルシンキに比較するとホールの平面形状はやや縦長で、ある意味シューボックス形状に近い。そのせいかどうか、音響的な印象としては、空間で音がより濃密に響いている印象がある。ヘルシンキでは、音響的な濃密さよりもむしろ空間的な拡がりを感じた。どちらが良いかという問題ではなく、響きの傾向がやや違うという感じである。豊かな音響と明瞭さが高度な次元で両立しているという意味では両ホールともよく似ている。また、チェロ、コントラバスなどの低弦が最初から力強く鳴るという点においても共通したものがある。
現在、約3ヶ月にわたりオルガンの組み立て設置工事が実施されており、来る9月16、17日に予定されているガラ・コンサートにおいて正式にオープンする。新施設の詳細については、また改めてレポートする予定である。(豊田泰久記)